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ランボー「見える者」の手紙 - 門司邦雄翻訳・訳注を
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「イリュミナスィオン」「青春時代 Ⅳ」アントワーヌの誘惑

「君はまだアントワーヌの誘惑の中にいる。短く切られた熱情のはしゃぎと、子供じみた傲慢さの痙攣と、衰弱と恐怖だ。」(「イリュミナスィオン」「青春時代 Ⅳ」

フローベールの「聖アントワーヌの誘惑」は、1874年4月に発行されており、イリュミナスィオンの制作時期の特定に使われています(一部は雑誌でも先に読めたこともあり、確定されていません)。「アントワーヌ Antoine」は、エジプトの隠修士で、キリスト教の修道士生活の基礎を作った聖アントニウス(251-356?)とされます。「聖アントワーヌの誘惑」は、聖アントニウスが誘惑しているのではなく、聖人(聖アントワーヌ)が悪魔から誘惑の試練を受けることです。

ランボーと同時代の詩人マラルメに対して、サルトルが「マラルメ論」でフローベールの「聖アントワーヌの誘惑」を引き合いに出して、マラルメの自殺願望について語っています。
「マラルメに先立って、すでにフローべールは、聖アントワーヌを次のような言葉で誘惑させた ― 「(死ぬがいい)。思ってもみろ、お前を神に匹敵させる仕事を果たすのだぞ。あいつはお前をつくり出したが、お前は、お前の勇気でもって、自由に、あいつの仕事を破壊することになるのだぞ」(『聖アントワーヌの誘惑』第七章)。
「彼がつねに望んでいたことはこのことではないだろうか。彼が考えつめていた自殺には、テロリストの犯行に似た何かがひそむ。それに彼は自殺と犯罪こそ人間がなしうる唯一の超自然的行為であると言わなかっただろうか。自分たちの悲劇を人類のそれと混同することはある種の人びとに見られることである。それが彼らを救うのである。マラルメは一瞬たりとも、もしも自分が自殺すれば、人類全体が彼の内において死滅するであろうことを疑わなかった。」(サルトル著「マラルメ論」渡辺守章・平井啓之訳/ちくま学芸文庫)

ランボーも詩の中で、自殺を語っています。後期韻文詩編の「渇きの喜劇 5.結論」や「我慢の祭 五月の軍旗」には、死の願望が描かれていますが、それは具体的な自殺というよりも、逃避への夢想に近いと思います。「夜明けがこの森を満たす/夜霧に濡れたすみれの中で死ぬことか?(結論)」「もしも、光がぼくを傷つけたら/苔の上で死んでやる。(五月の軍旗)」 そして、地獄での一季節では、やけくそ的に「― 自殺してやるぞ! 馬の脚もとに身投げしてやるぞ!(悪い血筋)」、それは「他の奴らが20歳になるなら、おれも20歳になってやるんだ・・・ いや!違う! 今では、おれは死に反抗する!(閃光)」となります。ランボーは、ヴェルレーヌにピストルで撃たれることにより、自殺の「夢」を砕かれます。

言葉による世界の構築と現実世界の(外見の)消滅が書かれた IV は、マラルメの文学との時代的な共有点と文学的な相違点があるように思われます。詩を書き終え、詩を捨てることは、彼の中の「詩人ランボー」の自殺だったのかも知れませんが。

「だが、君はあの仕事にとりかかるだろう。君の席の周りで、和声的、建築的なすべての可能性が興奮するだろう。思いもよらぬ完璧な存在が君の試みに身を捧げるだろう。君の周りに古代の群集と無為の豪奢の好奇心が夢のように流れ込むだろう。君の記憶も感覚も君の創造的衝動の糧でしかないだろう。」(「青春時代 Ⅳ」)
ここで「仕事」として挙げられた作品は、「イリュミナスィオン」中の「大都会(I)」、「大都会(II)」を始めとして、「」,「「橋」」、「首都の」などに、その結実を見ることができると思います。

「この世に関しては、君が出発する時どうなっているだろうか? どんな場合でも、現在の外観は全く無い。」(「青春時代 Ⅳ」)
この出発が詩からの出発なのか、あるいはこの世からの出発(つまり死)なのか、私は後者のように思えます。この頃、ロンドンは建設ラッシュであったと思います。そして、ランボーもそんなに早く自分の死を捉えてなかったでしょうから。

有名なレドンホール・マーケットの写真です。画面中央やや左上に、AD1881の文字が見えます。残念ながら、ランボーのロンドン滞在時期(1872〜1874・不定期)は少し前ですが、都市が変貌するのが、理解できると思います。

Parolemerde 2001
解読掲載:2002年11月3日、2004年9月4日、2006年4月2日、2008年10月27日、2019年8月18日更新

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