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新しい始まりnew

 ぼくが中学2年の時だった、初めてランボーの詩(邦訳)に接したのは。中学1年の時に、当時流行出した文庫本サイズの画集で、サルバドール・ダリの「内乱の予感」を見て、衝撃を受けたぼくは、シュールレアリズム関係の本を探して、家からも中学からも近い神田に、友人とあるいはひとりで、よく本を探しに行っていた。ランボーは、シュールレアリストのバイブルと知って、ランボーの本も探した。
 最初に見たランボーの詩は堀口大學訳の「永遠」だったと記憶している。これも文庫本だった。直感的に性の絶頂のことだと感じた。もちろん、同性愛ということはまったく判らなかった。同時に、小林秀雄訳の『地獄の季節』も見たが、扇情的な印象は受けたものの、何が書いてあるのか、理解できなかった。
 高校2年の時に、小林秀雄訳の『地獄の季節』(岩波文庫)と祖川孝訳の『ランボオの手紙』(角川文庫)を買った。その頃までには、ラコストの筆跡鑑定で、『イリュミナシオン(飾画)』が『地獄の季節』の後に書かれたということをどこかで知った。『イリュミナシオン』には、新しい文学(言語による構築)の可能性があるのか、知りたかった。その後、高校3年の時だろうか、ラジオでフランス人によるランボーの朗読を聴く機会を得た。とても強い印象を受けたのだが、今となってはそれが何だったのか、解らない。詩は楽譜で、朗読という演奏が必要と思った。解説は粟津則雄だった。『地獄の季節』の後に来る『イリュミナシオン』とは、どういう詩だろうか。だが、小林秀雄の訳(「飾画」)では、、具体的に感じ取れなかった。
 結局、他に此れと言って心に掛かる事柄がなかったので、生活はなんとかなるだろうという安易な考えで、大学は仏文科に進んだ。ぼくは団塊の世代なので、至る所に同世代が溢れていて、適当に生きて行ければ良いという輩も少なくない時代だったように思う。
 仏文科でランボー研究の自主ゼミを立ち上げ、仏文学者の高畠正明氏に指導してもらい、『イリュミナスィオン』を読み始めた。粟津則雄の訳本も購入して読んだが、「イリュミナシヨン」より「地獄の季節」の訳の方に惹かれた。フランス語テキストで『イリュミナスィオン』を、一編一編読み進めるうちに、20歳になって、やっと自分なりに、ランボーの詩を読む糸口が掴めた。それは、ランボーが(たとえ幻覚でも)見た体験と言葉が対応していて、デフォルメの手法はあっても、言葉だけでの構築はしていないということだった。なんとかランボーの詩の入口に立てたが、『地獄での一季節(地獄の季節)』の後に、『イリュミナスィオン』という言語により世界を構築できたという希望も、消えてしまった。言葉では実体を規定できない:「見える者 Voyant」の否定、ランボーが言語表現から醒める過程を、『地獄での一季節』ではなく、『イリュミナスィオン』で再現しようと、読解と制作年代の推定を卒業論文のテーマとした。「野蛮な」というタイトルの詩に出てくる旗がユニオンジャックであると読んだのもこの時だ。といっても、簡単に『イリュミナスィオン』全編が解読できるはずもなく、途中段階での発表の機会もないまま、ぼくは卒業した。子供の頃からカメラが好きだったので、写真の仕事を探しながら、アルバイトやニートをしながら、時に翻訳を試みながらの生活がしばらく続いた。・・・その後、ぼくは小さな広告代理店でライターとカメラマンの仕事で生活するようになった。
 インターネットが普及し始めた時に、妻(市子)がランボーの翻訳・解読をインターネットに掲載することを提案し、今までの翻訳を見直し、あるいは新たに邦訳し、訳と解読をホームページに掲載した。『イリュミナスィオン』全編の解読が終了したのは、2015年の春である。だが、その頃には、日本の文化状況は、ぼくがフランス語で『イリュミナスィオン』を読み始めた頃と大きく変わってしまっていた。むしろ、時代と共に、日本社会と日本語が変わったように感じる。原文に忠実な訳とその詳しい注を付けても、言語構造が大きく違い、生活思想も異なる原詩を、リアルに感じさせる事は難しい。少しでも作者の意図した表現に近づくには、どうすれば良いのだろうか。原文に、語意・文意に忠実な翻訳は、たとえランボーのフランス語から日本語にであっても、遠からずAIで可能になるだろう・・・
 ぼくは、作者が意図し、書いた意味と描いた事象を、日本語で書き直し、必要に応じ、言語的の照応は捨てて良いと結論した。テキストの意味に翻訳者の作為が混ざり濁った邦訳から、作者の意図とテキストの実質の邦訳にしたい。ぼくは、やっと再構築の入口に立つ事が出来たと感じている。さらに、残ったことがある。日本語はもはや・すでに・いつまでもグローバルにはなれない。最終的には、解読部分は英訳したい。課題は、呆ける前に、作業を完了させることだ。

2017年1月27日 Parolemerde 2001

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出発 Départ

見飽きた。幻想はどこにでもあった。
聴き飽きた。町のざわめき、夜も・昼も・いつも。
うんざりだ。人生の停滞。 ― ああ、ざわめきと幻想だ!
出発しよう、新しい優しさと新しい騒音の中で!

2017年1月28日 Parolemerde 2001

 
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ELLE et IL

 19世紀フランスの詩人、アルチュール・ランボーの「永別 Adieu」には、グローバルな支配者としてElleが登場した。フランス語のelleは、日本語では「彼女」にあたるが、同時に女性名詞の代名詞でもある。フランス語のilは、日本語では「彼」にあたるが、同時に男性名詞の代名詞でもある。
 ランボーの詩には、幾つもの正体不明なelleが出てくる。ぼくは、『イリュミナスィオン』中の、「H」のオルタンスHortenseと「祈り Dévotions」のシルセトCircetoも、「永別 Adieu」および「苦悩 Angoisse」のelleの異名と読んでいる。
 elle に対し、彼にあたるilは、『地獄での一季節』には、出てこない。出て来るのは、そのタイトルにふさわしく「地獄の扉を開けた、その人のあの子供 le fils de l'homme 」である。ランボーは異教徒になりすまし、「人の子イエス Fils de l'homme」を大文字のついた固有名詞から定冠詞のついた普通名詞に書き換えている。『イリュミナスィオン』中では、ただひとつil=「魔神 Génie」の詩が存在する。Génie は、精霊と言う意味だが、日本語では、聖霊と意味を取り違えられやすい。異教徒ランボーは、『地獄での一季節』中で「聖霊 Esprit Saint」ではなく「あの精霊 l'Esprit」という表現を使用している。ぼくは、このilは、異教の神という意味で「魔神」と訳した。
 神の代理人を装った「あの女」には、アルチュールを十字架のついた墓に埋葬した、信心深い王党派の母ヴィタリーの反映を見て取る事も可能だろう。同時に、この「魔神」に、優秀な軍人で、コーランのフランス語訳もした、ほとんど家庭に寄り付かなかった、父フレデリックの反映を見る事ができる。おまけに、アルチュールの兄、父と同名のフレデリックが御者の仕事に付いた時は、母ヴイタリーは、彼を門前払いにしたと伝記に記されている。

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魔神

 泡立つ冬にも、ざわめく夏にも、あの家を開け放ったのだから、彼は愛情と現在だ。飲物と食物を清めたのは彼だ。過ぎ去りゆく場所の魅惑と、立ち止まる場所の超人的な歓びが彼だ。彼は愛と力、愛情と未来、おれたちは怒りと倦怠の中に立ちながら、嵐の空と恍惚にはためく旗々の中を通り過ぎるのを迎えるのだ。
 彼は愛、新たに創り出された完璧な尺度、驚くべき思いもよらぬ思想、永遠なのだ。彼は運命の力により愛される機械だ。おれたちはみな、彼の譲歩とおれたちの譲歩を恐れた。おお、おれたちの健康の享受、おれたちの能力の飛躍、彼への利己的な愛情と熱狂。彼こそは己の無限の命のためにおれたちを愛するのだ…。
 おれたちが彼を思い出せば、彼は彼方からやってくる…。もし「崇拝」が去りゆけば、彼の約束が鳴り響くのだ。「退け、この迷信、この古い体、この世帯とこの年代。この時代はすでに滅びたのだ!」
 彼は天に昇ったりはしないのだ、天から再臨しもしないのだ。女たちの怒りと男たちの馬鹿騒ぎとあらゆる罪人の贖罪を成就したりもしないのだ。彼がいて、彼が愛されれば、そのことは、もうなされたのだから。
 おお、彼の息吹、彼の頭脳、彼の走り。形と動きの完成の恐るべき速度。
 おお、精神の豊かさと宇宙の広大さ!
 彼の体! 夢見られた解放、新しい暴力に交差された恩寵の破壊!
 彼の眼差し、彼の眼差し! 眼差しに続き「再起した」昔の屈従と苦痛のすべて。
 彼の日! もがきうめくあらゆる苦しみの最も激しい音楽の中での廃止。
 彼の歩み! 昔の侵略よりさらに巨大な移動。
 おお、彼とおれたち! 失われた愛よりもさらに好意に満ちた奢り。
 おお、この世! そして新しい不幸の清らかな歌!
 彼はおれたちみんなを知り、おれたちみんなを愛した。この冬の夜、岬から岬へ、吹き荒れる極地から城へ、群衆から浜辺へ、眼差しから眼差しへ、力と感情は疲れ果てても、彼を呼び、彼に会い、彼を送り返そう。そして、潮の下にも雪の荒野の頂にも、彼の眼差しを、彼の息吹を、彼の体を、彼の日を追い求めていこう。

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 昇天し、再臨し、「神の子」を証明したキリストは、ここには存在しない。ランボーの予感した、この新しいメシア像は、1872年末から1873年初めに、雪の故郷で書かれたと推測している。「あの家」は、ゴシック様式の教会のことだろう。だが、当時のカトリック信徒にも、新しいキリストの希求があった。ランボーのこの詩が、彼個人を超えた時代の要求も映し出していたと思うようになった。ランボーと同時代、普仏戦争とパリ・コミューンという悲惨な体験をした人々の心の救済の為、全てを民間の浄財で賄い、脆弱な地盤の上に、40年もの歳月をかけて建立されたパリ、モンマルトルの丘の上に立つサクレクール教会 Sacré-Cœur(聖心・御心)のドームに描かれた壁画を見た時に。

image of Sacré-Cœur Outsideimage of Sacré-Cœur Inside

(画像クリックで別ウィンドウ拡大表示します)

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 時は流れて、現代、第二次世界大戦後70年以上続いた、米英+イスラエル+日欧:軍産・メディア・金融支配体制が、ひとつの大きな転機を迎えている。今日は、アメリカ合州国第45代、トランプ大統領就任の日だ。トランプ支持とヒラリー支持の、州別・男女別地図では、くっきりした男女差が示された。なお、France2でこの地図を見てから、3日後(日本時間4日後)に、日本のメディアでやっと見る事ができた。
 トランプ氏は、メディアという変声装置を通さないで、Twitterで政見を発信して来た。ランボーは、詩人になる前に、新聞記者になることを考えていた。プロイセンのビスマルクを皮肉った詩等を地元の共和派系の新聞に送ったが、記事は採用されなかったと伝記に記されている。ぼくには、ランボーの「魔神」には、教会を介さない個と全体、個と精霊のコミュニケーションを表しているように感じる。あの時代には、すでに電報が発明されていたので、ランボーが通信からインスピレーションを得たとしても不思議はない。
 妻の仕事上の知合いのアメリカ女性は、選挙戦中は、トランプ氏を下品としていたが、当選後は、傲慢な彼がどのような仕事をするのか見守りたいと言っている。

20170120, Parolemerde2001

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■ Adieu の Elleについての補足説明。
『地獄での一季節(地獄の季節)』末尾の章「永別(別れ)」で、 Elle が文頭となっている箇所について:
「これでは、いずれは審判を受けるべき数知れぬ魂と亡骸に君臨する女王、死体を貪るこの雌鬼、この女が食い終えることはあり得ない。」
《Elle ne finira donc point cette goule reine de millions d'âmes et de corps morts et qui seront jugés !》
・英語訳(Wallace Fowlie)
She will never be done, then, that ghoul queen of a million souls and dead bodies, and which will be judged !”
・原文直訳:
「彼女は、従って、絶対に止めないだろう、この女食屍鬼を、死んだ100万の魂と肉体の女王、そして、それらは捌かれるだろう!」
 女食屍鬼 goule と女王 reine の間には、ヴィルギュール(コンマ)無しだが、同格と読んでいる。「そして、それらは捌かれるだろう!」の部分は、原詩ではイタリックになっている。
・参考資料 小林秀雄訳(傍点省略・旧字体は新字体に修正):
さてこそ、遂には審かれねばならぬ幾百萬の魂と死屍とを啖ふこの女王蝙蝠の死ぬ時はないだらう。

■ 『イリュミナスィオン』 の 「魔神 Gnéie」 と『地獄での一季節』
ランボーが「魔神」で描いた、来るべきメシアは、『地獄での一季節』の中でも、「永別」の前の「朝 Matin」に語られている。このことからも、「魔神」が『地獄での一季節』の前に書かれた詩と推定できる。さらに、この「朝」は、ヴェルレーヌにピストルで撃たれる前に、『地獄での一季節』あるいは「異教徒の本」・「黒人の本」の締めくくりとして用意されていた章ではないかと推測する。
「・・・だが、今では、おれは地獄の体験談を終わらせたと信じている。あれは正に地獄だった、例の「人の子」が扉を開けた、古のあの地獄だった。
 命の「王たち」、心と魂と精神という、三人の予言者は感激しなくても、常に、変わらぬ荒れ野の中から、変わらぬ夜を望んで、おれの疲れた目はあの銀の星を見つめて、常に目覚めている。新しい労働の誕生を、新しい英知を、圧政者と悪魔の退散を、迷信の終焉を迎えに、 ― 最初の人々として! ― この世に「メシアが産まれる日」を崇めに、砂浜と山々を越えて、おれたちが行くのはいつなのか!
 天の歌、民の歩み! 奴隷どもよ、人生を呪うのは止めよう。」

 

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五月の軍旗

リンデンの、輝く若葉に
病的な勝鬨が消える。
だが、心の歌声は
スグリの茂みで旗めく。
我らが「血」よ、血管中で笑え、
ここでは、ブドウの蔓が絡み合う。
空は天使のように清らかだ
青空と波が、心を通わす。
ぼくは出かける。もしも光に射られたら
苔の褥で死ぬだろう。

我慢を重ねて、うんざりして
馬鹿な話さ。苦労は嫌だ。
ドラマの夏の、幸運の車輪に、
ぼくは縛り付けられたい。
おお、自然よ、おまえの手でたっぷりと、
― 孤独でもなく、虚しくもなく ! ― ぼくは死ぬ。
ところが、「羊飼いたち」は、おかしなことに、
世間の手に落ちて、死ぬばかり。

季節が、ぼくを、使い尽くして欲しい。
自然よ、おまえの元に、ぼくは行く。
飢えを、満たしてくれないか、
渇きも、潤してくれないか。
ぼくには、夢も幻も、何もない、
太陽に笑うことは、両親に笑うことだ、
だが、このぼくは、誰にも笑いかけたくない、
そして、自由とは、この不運のことだろう。

                    1872年5月

訳:2016年5月5日、Parolemerde2001

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『異邦人』(アルベール・カミュ著)より

 気になっていたカミュの『異邦人』の終り近くのごく一部分を訳してみた。刑務所付きの司祭に対する、主人公ムルソーの反駁の言葉なのだが、すでに老人となったぼくには、より身近に感じられるようになった。

「・・・おれはと言えば、両手は空っぽのようだ。だが、おれはずっと自信を持って、全てを信じて来た、あんたよりもしっかりと、おれの人生と迫り来る死についても。そうさ、おれにはこれしか無い。だが、少なくとも、この真実がおれを捕まえている限り、おれもこの真実を捕まえている。おれは正しかったし、今も正しい、いつでも正しい。おれはこんな風に生きて来たが、もっと他の生き方もできたかもしれない。おれはこれをしたが、あれはしなかった。こんなことはしたが、あんなことはしなかった。それで? おれは、おれの正しさが証明される、あの瞬間、あの束の間の夜明けをずっと待っていたかのようだ。何ものも、何ものも重要ではなかったし、その訳もおれは知っている。あんただってそれを知っている。おれが従ってきた無意味な人生の間じゅう、おれの未来の底から、まだ訪れない年月を横切り暗い息吹が遡って来て、その息吹の通り道にある、おれが生きてきたほどには、はっきりしない年月の中に差し出される全ての物を、等しくしてしまうのだ。他人の死も、母の愛も、おれにはどうでも良い、あんたの神も、人の決める生活も、人の選ぶ将来も、おれにはどうでも良い、唯一の運命が、おれ自身をも、おれを兄弟と呼ぶ、あんたのような多数の特権者をも、おれと共に選んでいるからだ。・・・」

2016年1月20日、Parolemerde2001

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■ロートレアモン伯爵著 『マルドロールの歌』 第1の歌 第5節
  (2014年12月16日)

 おれは見てきた、わが生涯を通じて、たった一人の例外もなく、肩身の狭い人間どもが、たくさんの愚かな行いをすることを、同類を愚かにし、あらゆる手段で魂を堕落させるのを。奴らは己の行為の動機をこう呼ぶ、栄光と。この有様を見て、おれは他の奴らと同じように笑おうと思った。だが、この奇妙な真似は不可能だった。おれは良く切れる刃の付いたジャックナイフを手に取り、唇の合わさっている処の己の肉を切り裂いた。一瞬、目的は達せられたと思った。おれは鏡の中を覗き込んで、己の意志で傷つけたこの口を見つめた! 間違いだった! しかも二つの傷口から大量に流れ出る血が、他の奴らの笑いと本当に同じなのか見分けるのを妨げた。だが、少し見比べた後、おれの笑いは人類どもの笑いとは似ても似つかないことがよく分った、つまりおれは全く笑っていなかった。おれは見てきた、醜い頭と暗い眼窩の中に落ち窪んだ眼をした人間どもは、岩よりも硬く、鋳鉄よりも強固で、サメよりも残忍で、若者よりも横柄で、犯罪者よりも激高し、偽善者よりも背信で、この上なく奇妙な道化役者で、神父のように強情で、外見には何も表さず、地でも天でも最も冷たい存在をも凌ぐのを。奴らはモラリストたちが己の心を明るみにだすのをうんざりさせ、彼らの上に天から容赦ない怒りを落とさせる。おれは見てきた、ある時は、奴らが一斉に、母親に抗うすでに邪悪な子供の拳のように、おそらく地獄の悪霊にでも駆り立てられ、この上なくたくましい拳を天に向け、氷れる沈黙の中、眼には痛ましい悔恨とともに憎悪が溢れ、不正と恐怖に満ちた胸に秘めた忘恩の茫洋たる瞑想を、勇気を持って口に出すことも無く、慈悲の神を憐憫の情で悲しませるのを。ある時は、一日中、子供時代の初めから老年時代の終わりまで、生きとし生ける全てのものに逆らい、己にも逆らい、神の摂理にも逆らい、非常識な信じがたい呪いを撒き散らしながら、女子供には売淫させ、恥じらいに捧げられた身体の部分を辱めさせる。その時、大海原は海水を持ち上げ、深海の底に板子を飲み込む。嵐が、地震が家々をなぎ倒す。ペストが、様々な疫病が祈る家族を皆殺しにする。だが、人間どもはそれに気付かない。おれは奴らがこの地上での振舞いに顔を赤らめたり、青ざめたりするのを見るには見てきたが、ほとんどなかった。嵐よ、竜巻の姉妹よ。おれはその美を認めないが、蒼い天よ。偽善者の海よ、おれの心の似姿よ。謎を秘めた大地よ。星々の住人よ。全宇宙よ。全宇宙を壮麗に創りし神よ、おれが嘆願するのはおまえしかいない。善良なる人間を誰かひとり、このおれに見せてくれ! ・・・・・・いや、それより、おまえの恩寵でおれの生まれながらの力を10倍にしてくれ。この化け物を目の当たりにしていると、おれは驚愕のあまり死にそうだ。そうでなくても人は死ぬんだ。

訳:2013, Parolemerde2001

----------- End -----------