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16-mai-2019 up, mojico - Top 補足newup

* * * お知らせ * * *
ランボー「見える者」の手紙 - 門司邦雄翻訳・訳注を
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eyedia-shopmaster_ichico - May 2019

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いつも、五月になると決まって思い出す詩。しかも、今年は、黄色いベスト運動も起っている。
ぼくらの若い時は、フランスでも五月危機があり、ランボーの名前が壁に書かれたりしたのだが・・・
ランボーの書いている処にどうすればいかに近づけるか、それを求めて、再考してみた。背景の解読は、ここを参照されたい。
翻訳・解読(解読はスクロールすると、小さな字で出てきます)
http://rimbaud.kuniomonji.com/jp/derniers/fetes_de_la_patience_jp.html#bannieres_de_mai
フランス語テキスト(詩はスクロールすると、出てきます)
http://abardel.free.fr/tout_rimbaud/manuscrits_richepin.htm#bannieres_de_mai

最初の二行について、少し書いて置く。new
始めの行の光景は、木の芽が出て来た枝が、光を受けて透き通って見える(クリアー)様子だろう。次の行は、その枝々に、病的な勝鬨が消えて行く(死んで行く)と書かれる。勝鬨と訳した halllali は、あららららという獲物を追い詰めた時に挙げる合図・勝鬨・角笛等を言う。ぼくは、ここにパリ・コミューンの最期を見る。1871年5月28日のことである。少し前に France 2 で、 フランスの上流階級の人が、趣味の猟のために昔ながらに猟犬を飼っているのだが、100匹程だろうか、その数にびっくりした。

 

   五月の軍旗new

         アルチュール・ランボー

菩提樹の、輝く若葉に
病的な勝鬨が死んでゆく。
だが、精神のシャンソンは
スグリの実の間を旗めく。
我らが血よ、血管中で笑ってくれ、
そら、ブドウの蔓も絡み合う。
空は天使のように清らかだ
青空と波は、心を通わす。
さあ、行くぞ。もしも、光がぼくを傷つけたら
苔の上で死んでやる。

みんな、辛抱して、うんざりして
それは、たやすいことさ。苦労なんか糞食らえ。
ドラマチックな夏の、幸運の車輪に、
ぼくは縛り付けられたのだ。
おまえにしっかり抱かれて、おお、自然よ、
― 少しは孤独でもなく虚しくもなく ! ― ぼくは死ぬんだ。
だが、おかしなことに、「羊飼いたち」は、
世間の手に落ち、死ぬばかり。

季節が、ぼくをすり減らして欲しいんだ。
自然よ、おまえの下に、ぼくは帰る。
飢えと、すべての渇きも、一緒だ。
だから、お願いだ、食わせてくれ、飲ませてくれ。
ぼくに、迷わせるものは、何もない、
太陽に笑うことは、両親に笑うことだ、
だが、このぼくは、誰にも笑いたくない、
そして、自由とは、この不運のことなんだ。

                    1872年5月

翻訳:20190515, Parolemerde2001


 

闘病レポート - #003new

退院したが、きちんと治った訳ではない。特に足は下リハの歩行訓練では、一応、200m程は歩けたはずだったのだが、下が砂利などの場合は、右足が吸い付いたように動かなかった。
そんな状態で、まずは三か月、新小文字病院でリハビリの治療を受けた。家から車で10分程の距離だが、市子に車で送り迎えしてもらった。病院内の移動は車椅子だった。下リハで最後に使った車椅子は、なぜか漕いで重たく、右手がつっばる原因となったようだが、新小文字病院の車椅子は比較的良かったようだ。新年を迎えて、週3回の訪問リハビリとなった。始めは、週一回はリハビリステーションに行く予定だったが、耳から血が出て、被爆症状の可能性も有った。また、血小板の作用を抑える薬や筋肉を弛緩させる薬の影響かも知れない。市子が薬を続けていると暗くなって嫌だと言い、効果が見られないようなので止めている。病院内も、杖をついて何とか歩けるようになった。今はそんな所だ。
家に帰ってから、半年以上、精神的に不安定だった。市子とも、何回か喧嘩をした。ぼくは頭はあまりやられていないので、自分が病気になる以前の感覚であれこれやることを思いつくのだが、実際に作業する市子の方は、既に手一杯な状態だったり、それ以前にやらなくてはならないことがあったりする。考えれば、当たり前のことでも、病人には難しかった。
今は、比較的安定している。病気が再発する可能性も比較的遠のいたし、耳の出血も収まり、病状も安定している。それでも、リハビリの効果は少しずつだし、お金のことも考えなくてはならない。

2019年5月12日 Parolemerde 2001


 

闘病レポート - #002new

ぼくは、救急搬送された新小文字(しんこもんじ)病院で、病気が落着くと、一か月弱で下関リハビリテーション病院(通称:下リハ)に移った。何で移ったのか、今となっては分からないのだが・・・それが、一般的な流れだったとも。ここに三か月居た。
去年の異様な暑さのため、病院の定温環境に依存していた、と言った方が妥当だろう、一か月目は、まあ快適だった。二か月目は、室替えで同室になった人が、夜中に暴れたり、顔にスプレーを噴射したりするので、我慢出来なくなり、ケアマネージャーに言って室を変えてもらった。三か月目は室にPCを持って来たが、左手で操作するのが難しかった。これは今でも変わらない。足のリハビリ担当者が、ぼくの足に装具を付けさせようとしたが、ぼくの家の周辺は坂しか無く、しかも道が悪いので、断った。
もう、この病院で、三か月になり、ここの治療もそろそろ終わりにしなければならなかった。そして、ぼくは10月に退院した。酷い暑さも収まっていた。
病院は、食事は良かった。一度も残さなかった。トイレが、人数が多いので、どうしても混む時間帯があり、結局、便は3日に一度ぐらいだった。便秘の人は多いようだった。ぼくは、脈が早く、血圧も高めなので、血小板の作用を抑える薬と、血圧降下剤を二錠、新小文字病院の時から服用していたが、ここ下リハで、血圧か下がらないので、さらに血圧の薬を四錠プラスされた。退院後、新小文字病院で、追加分は余計だと言われたが・・・

2019年5月9日 Parolemerde 2001


 

闘病レポート - #001

去年の6月、脳溢血で倒れた。今は右手・右足が不自由で、リハビリ中である。それまでに何度か「お知らせ」が有ったのだが、余程気を付けないと分からなかったろう。

最初のお知らせは、2011年6月に、ビッグサイトで行われた食品機械の展示会で、左半身が痺れたことだった。その日は予定を予めこなしていたので、目立たない所で1時間半ほど休み、その後、少し仕事をして帰った。その次の週に近くの病院でMRIを撮ってもらった。頭の血流が悪くなっているという診断であった。それ以降、2017年までは、何もなかった。

ぼくと市子は、当時、武蔵小金井の実家に居た。同居の義姉と相続争いをしていた。ぼくは、もともと血圧が高かったので、審判の所為だろうと思っていた。調停も入れると、1年以上になったその時に、フクイチが爆発した。

実家は、仙川沿いの低湿地にあった。風が強く、家の周りは砂埃が溜まっていた。おまけに、フクイチ後、計画停電の影響で、中央線を渡って30分程掛かるOKストアまで、歩いて買物に行っていた。ぼくたちは土地を売って出ることになった。ぼくが掃除をした。

その年の11月、ぼくたちは本家の家長の招きで、九州の八幡に出て来たが、彼は少し前に亡くなってしまった。翌年の2月、東京に出向き、相続争いは終わった。その後、福岡市に、その後、北九州市門司区に住んでいる。

2017年11月、ぼくは倒れたのだが、大したことは無いようなので、家の調停が問題かなと思った。2018年6月、炎天下での塀の作業・ペンキ塗りがたたったのか、ダウン。ここの経過は改めて書きたい。

病院を退院し、自宅で訪問看護を受けるようになった。週1日だけは、田野浦にあるリハビリテーション施設に通った。そこは瀬戸内海だ。ある日、右耳で何か破れる音がして、その後、右耳から血がでるようになった。原因は分からなかった。1か月以上経った今、血が止まった。

これらのことには、フクイチの放射能の影響があると思われる。被爆から7~8年後あとに、被爆の影響が出るが、詳しいことは分からない。

2019年4月23日 Parolemerde 2001

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