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アルベール・カミュ著 『異邦人』末尾に対する考察

Camus 原文:
Comme si cette grande colère m'avait purgé du mal, vidé d'espoir, devant cette nuit chargée de signes et d'étoiles, je m'ouvrais pour la premiére fois à la tendre indiférrance du monde. De l'éprouver si pareil à moi, si fraternel enfin, j'ai senti que j'avais été heureux, et que je l'etais encore. Pour que tout soit comsommé, pour que je me sente moins seul, il me restait à shouhaiter qu'il y ait beacoup de spectateurs le jour de mon exécution et qu'ils m'acueillent avec des cris de haine.

門司訳:

この大きな怒りが、ぼくをあの悪行から清めてくれ、希望を空にしたかのように、予兆と星々に満ちたこの夜を前にし、ぼくは初めて、世間の暖かい連れなさに目覚めた。あの暖かい連れなさは、ぼくにそっくり、つまり、ぼくの仲間だと感じた、ぼくは幸せだった、今までも、と気付いた。ぼくに残された望みは、全てが完遂されるために、ぼくがより孤独を感じないために、処刑の日にたくさんの見物人が来て、憎悪の叫びでぼくを迎えることだった。

窪田訳:

あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、この「しるし」と星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。
✽「」は、傍点の付いた言葉です。ぼくの持っている学生時代に買ったペーパーバックの本では、何も付いていないし、イタリックにもなっていません?

翻訳考察
✽ 文中引用のフランス語の訳は、無表記が門司訳で、窪田訳の場合は「窪田訳」と付記する。

一番の相違点は、世間の暖かい連れなさ la tendre indiférrance du monde の解釈と、次の行頭の ~を感じる De l'éprouver で、動詞 感じる éprouver の目的語、代名詞 le が何を指すか、ここに、二者の読みの大きな違いがある。

窪田は 直前の名詞を、世界 le monde と取っている。門司は、代名詞 le が指す言葉(名詞)は la tendre indiférrance であると読んだ。窪田訳の「世界の du monde 」について、du は de le からなり、de le monde となる。窪田は、定冠詞 le のついた名詞 le monde を、 éprouver の目的語とした。しかし、門司は、ここの du monde は、前の名詞の説明として、世の中の・世間の・世界の、という形容詞的慣用句として使われていると考えた。
また、「世間の暖かい連れなさ la tendre indiférrance 」の tendre は、親しさ・優しさ・暖かみを表し、indiférrance は、無関心・よそよそしさ・冷たさを表している。カミュは、一般的には相反する印象を与える二つの言葉を意図的に並列し、強調している。ぼくは、カミュが『異邦人』で描いた、ムルソーに身近な人々のエピソード、例えばサラマノ老人と彼の犬とか、あるいは、ムルソーと養老院のママンの関係とか、を思いだす。ここで、カミュは、実生活の中の思想、つまり哲学的・言語的(上部構造)ではない思想を、読者に提示していると考え、門司は、それを活かす訳を試みた。

門司 邦雄(Parolemerde 2001)
2017年9月5日

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