Blog - ランボー的

ノアの大洪水の後

 ノアの大洪水が、また起るという予感が鎮まったとたん、
 臆病者の野ウサギは、イワオウギと揺れている釣鐘草の中で立ち止まり、クモの巣越しに、虹に祈った。
 おお! 宝石たちが消えていく、— 花たちは見守っていたのに。
 汚ない大通りには、屋台店が立ち並び、みんなは、版画で見るように、天まで段々と昇る海の彼方に、小舟を曳いていった。
 血が流れた。「青ヒゲ」の家で、— 屠殺場で、— 円形闘技場で。そこの窓は、神の印に青ざめた。血と乳が流れた。
 働き者のビーバーがダムを作った。「マザグランコーヒー」はカフェ・バーで湯気を立てた。
 まだ水の滴るガラス張りの大きな建物の中で、喪服を着た子供たちが驚くべき奇蹟を描いた絵を見つめていた。
 戸がバタンと鳴って閉り、村の広場では、あられ混じりのとどろくように激しいにわか雨の中で、見渡すかぎりの風見や鐘つき塔の雄鶏も一緒になって、あの子が腕を振り回した。
 マダム*** がアルプスの山奥にピアノを据えた。ミサと初聖体の儀式が大聖堂のおびただしい祭壇で厳かにとりおこなわれた。
 キャラバン隊が出発した。そして「豪華ホテル」が、吹き荒れる極地の夜と氷の中に建てられた。
 そのとき以来、「月」はタイムの香る荒れ野の中で、ジャッカルが哀しく吠えるのを聞いた、 — 木靴をはいた牧人たちが、果樹園の中でぶつぶつ呟くのも聞いた。それから、芽吹いたすみれ色の森の中で、ユーカリスがぼくに、春が来たと教えてくれた。
 — 池よ、溢れろ、 — 泡立て、橋も林も押し流せ、 — 黒い布と大オルガンよ、 — 稲光と雷鳴よ、 — 沸き出し渦巻け、 — 水と悲しみよ、溢れ出て、また「大洪水」を引き起こせ。
 なぜなら、大洪水が引いてからは、宝石は隠れたまま、花は開ききったままだ! — ああ、うんざりだ! これでは土の壷に火種を起こしている「女王」、あの「魔女」は、彼女は知っていて、ぼくたちは知らないことを、決して語ってくれないだろう。

アルチュール・ランボー『イリュミナスィオン』より

翻訳:門司 邦雄(Parolemerde 2001)
更新:2017年7月5日

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解読

 ランボー最後の詩集とされる『イリュミナシオン(飾画)』の冒頭に来る詩のタイトルです。「大洪水の後」と邦訳されています。でも、le Déluge は、定冠詞が付き、大文字で始まっているので、「ノアの洪水」という意味に取れます。英語の the Flood も「ノアの洪水 Noah’s Flood」です。最初の1行は、Aussitôt que l'idée du Déluge se fut rassise, と始まります。Aussitôt après que となっているテキストもありますが、ランボー自身の手書き原稿には après はありません。英訳を見てみましょう。As soon as the idea of the Flood had subsided, これを日本語に訳すると、「ノアの洪水という考えが、だんだん静まるとすぐに、」となります。つまり、静まったのは、大洪水ではなく、ノアの洪水という「考え」なのです。「記憶」とか「眺め」とか、いろいろの邦訳がありますが、やはり「考え」が原文の意味だと思います。日本語は、こういう表現スタイルは取りません。あるいは、見える者(見者)ランボーなりの表現なのかもしれません。ぼくは、「ノアの洪水が再来するという考えが、消えていくとすぐに、」という意味に読みます。この詩は『聖書』の「創世記(ジェネシス)」から洪水の意味を取っているのでしょう。さらに、「野兎がイワオウギと揺れる釣鐘草の中で足を止め、そして、蜘蛛の巣を通して、虹に祈った。」と続きます。巣にあたる言葉は「布 toile」です。英語では「web」で、今ではインターネット(情報通信網)の意味に使われていますが、機(はた)という意味もあります。50年程前に、ラジオで放送されたランボーのフランス語朗読の解説では、野兎を無垢な存在と捉え、この詩をランボーの、自然に対する無垢な視線の強行と解説していました。ぼくは、兎は、狩りの対象となる臆病な小動物と考えます。「兎追いし彼の山」です。そして、臆病な兎は、なぜか蜘蛛の巣を通して、虹に祈ります。虹は、ノアの大洪水の後に掛かった天と地の契約の印です。

 地球温暖化が進み、天候が不安定さを増しました。原因は、森林と透水性土壌面積の減少、都市化と人為的な熱エネルギーの増大等であり、二酸化炭素は温暖化の一因だと思われるが、その比重は分らない。
この春(2016年)、フランスでも、広範囲に雹が降りました。そして、この少し前には、広範囲に洪水が起りました。パリのセーヌ川も一部氾濫しました。ネットニュース(France2 JT)では、水浸しの町を、ボートを紐で引いていく映像もありました。でも、なぜか、洪水を DÉLUGE とは表さずに、INONDATIONと表記しています。三、四年前には、DÉLUGE という表記を見た記憶があります。そして、やっと洪水が引いて後始末が始まったら、サッカーです。シャンゼリゼには巨大なスクリーンが設置され、試合が放映されていて、みんな大騒ぎです。DÉLUGEという言葉は、ノアの洪水を連想させるので、INONDATION にしたのではないか、と思っています。マクロン政府になってから表現が変わったと思いますが、確かめてはいません。
 ノアの洪水は、天(神)が人間に与えた罰であり、ノアの家族と一番の獣たちだけが箱船に乗って生き延びた話です。他の人々・動物たちは神により滅ぼされました。洪水が引いた後、空に掛かる虹(ラルカンシエル)にノアの家族が祈る場面を描いた絵画もあります。大洪水の神話は、聖書以前にも幾つかありました。ランボーの詩「大洪水の後」は、やはり、『聖書』の「創世記」のノアの洪水を、その源にしているのでしょう。この詩は、大洪水の後の様々な事象を列記していきます。その後(Dupuis lors)、ランボーはノアの大洪水の再来を望んでこの詩を終ります。
この詩は、『イリュミナシオン』でも早い時期に書かれたとされ、見える者の詩法が顕著な詩と思われます。
(英訳は Wallace Fowlie)

解読:門司 邦雄(Parolemerde 2001)
掲載:2016年12月04日、2019年8月24日更新

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